よろしく哀愁

あーえーなーいーじかんがー、あーいーそーだーてるのさー!

郷ひろみも歌っておりますように、今回は、コロナ禍で会えないままあれよあれよと時が過ぎ、会えないまま結婚を成立させた私たちのこれまでの経緯をなるべくロマンチック仕立てでお届けしようと思います。調子に乗ってタイタニックばりの壮大なラブストーリーになったらすみません。それではどうぞ。

そもそもなのですが、私がシンガポールで就職した大手日系のメーカーが、ブラックもブラック、黒光しているほどブラックで。モラハラパワハラのオンパレードでした。毎日無謀な量の仕事をふっかけられ、朝8時から夜10時まで窓のない澱んだオフィスで働き続け、現地の上司には理不尽に怒鳴られ続け、心身ともに困憊しておりました。日系といえども部署に日本人はほとんどおらず、中華系マレーの現地人が牛耳っている環境。シンガポール人は優しいと聞いていたのですが、ここの会社特にここの部署に限ってはそんなステレオタイプは当てはまりません。私が現地採用の初の日本人、しかもシニアマネージャーとしての採用で目をつけられたのか、中華系マレーの意地悪男女二人のボスから完全なる新人イジメを受けておりました。しかもこいつらシングリッシュが強すぎて何言ってるのか本当にわからない。日本人駐在員の同僚が本社の人事に掛け合ってくれたりもしたのですが状況は改善されず、(この時点で本社もろくでもないこと確定、ここのメーカーの商品私は個人的に不買運動してます)私は鬱状態だったと思います。そんな状態で39度の熱が1週間くらい続き、咳が止まらなくなる時期もありました。これ、インフルの薬飲んでたけど今考えると多分コロナパンデミックのハシリだったんじゃないかと思ってます。シンガポールでいち早くコロナかかってたんだと思います。ディズニーで例えるならまさに継母と異母兄弟に虐められて仕事を押し付けられる可哀想なシンデレラ状態!しかも謎のウィルスにも苦しめられるシンデレラ!とても哀れです。しかし、ここで耐え抜くのがシンデレラですが、ご存知のように、私にそのような忍耐はありません。

おまえらがその態度なら私はさっさと辞めてやるぜ。私は渡星のきっかけになるビザが欲しかっただけなんだよ、違う会社に転職してやるわ、あばよ!

という感じで、辞表を叩きつけてやりました。これが、いわゆる背水の陣というやつです。この恐ろしさはこの時の私はまだ知りません。当然ですが、会社を辞めた私は就労ビザを剥奪されました。残された時間はわずか1ヶ月!でも大丈夫、私には根拠のない自信がありました。いざとなったら1回マレーシアにでも出て再入国して就活続ければいいし、って。

しかし、運悪く、この辺りから私はコロナの波にすっぽり飲み込まれてしまうのです。パンデミックが始まり、新規雇用は激減、外国人ビザサポートなんてとんでもない、先行き不透明な世界に巻き込まれていきました。最終面接まで進んだ会社に既に仮内定を頂いていたのですが、しばらくして担当者から、「断腸の思いですがこの度はビザのある方に...」とお断りを受けることになりました。腸が千切れるのは私の方だわ。と心で弱々しくツッコミました。どうやら帯同ビザ持ちの駐妻にそのポジションは流れてしまったようでした。くそー。いよいよやばい!と焦ってきたところに、満を辞して王子の登場です。キラキラキラリン〜(登場音)

王子「僕の家に一緒に住もう、君は今無職だし、最悪帰国しなくちゃいけなくなるリスクもある。(身分不相応な)高級コンドに住んでる君の家賃ももったいないでしょう?」

私「...だな。そうする。」

王子「ほら君の合鍵だよ、さあおいで!」

私「...ありがとう王子」

以上の会話をもって、私の居候生活がスタートしました。こうして高級コンドから一気にボロい1DKの二人暮らしが始まりました。

実はこうなる前から彼は心身ボロボロになっている私を気遣ってサポートしてくれておりました。帰りの遅い私のためにごはんを家に配達してくれたり(ウーバーに頼めば良い話)、サプリを買ってくれたり、心のケアのために相談に乗ってくれたり。弱っている時にする恋愛は良くないと言いますが、弱っている時に見放す冷たい人に比べたら、私は弱いものを助けてくれる人の方がずっと良いです。そんな甲斐あって私のHPはメキメキと回復していきました。後から知ったんですが彼の専門はメンタルヘルスだったそうなので、私はプロに相談に乗ってもらってたことになりますね、ラッキーでした笑。しかし職探しの見込みは無く、状況は悪くなる一方。こりゃ一旦マレーシアに飛ぶしかないなと思っていた矢先、近隣諸国が軒並みロックダウン(鎖国)を始めました。どうせ外出るなら一緒にバリに行こうよ、とうちの王子が囁き、そりゃ名案と私もそれに乗っかり、バリ旅行のチケットまで取ったのですが、その夢も束の間、インドネシアも例に漏れずロックダウンとなり、敢えなく計画倒れとなりました。この時APACの国をたくさん調べたのですが、ほぼ逃げられる場所はなく、唯一行けそうだったスリランカも旅行ビザがサスペンドされ、ゲームオーバー感満載。ここで一旦観念して私は自国の日本に帰ることにしました。2週間の滞在予定で帰国しましたが、帰国2日目に今度はシンガポール自体がロックダウンするニュースが飛び込んできました。新規入国が全面禁止となるルールだったので私は日本の滞在をたった2日間で切り上げて、慌ててシンガポールにトンボ帰りしました。私の着いたわずか5時間後には入国禁止の措置が取られたのでギリギリセーフとはこのことです。綱渡り感ハンパない!刺激的なライフ!幸い彼が正式な同居の契約を大家と交わしてくれていたので、14日間の隔離をホテルでは無くて彼の自宅ですることができました。(今は無理と思いますが当時はOKでした。) とは言ってもビザなし旅行者ステータスの私。いずれにせよ長期滞在はできません。1ヶ月の猶予のうちその半分は隔離生活。就活状況が好転するはずもなく、残酷にもその時は来ました。はい、本帰国。

当時はコロナの状況が不透明で、私たちは長くても半年くらいで収束するものと考えていて、本帰国と言っても、ほとんどの荷物を彼の家に置いたままでした。ですが、「じゃ、またね!」とチャンギ空港でお別れしてから1年、私たちはただの一度も会えていません。成田ではPCR検査の後、段ボールベッドで6時間待たされ、バナナとパンという1ミリもワクワクしない配給を受け、ただただ辛かったです。笑。もうこの帰国者の集いで感染するんじゃなかろうかって思ってました。

それからこの1年間は、全てをリモートで乗り切りました。日本での定住を決めたり、住処を決めたり、家具を買ったり、親への挨拶なども。

感謝すべきはインターネットとグローバリゼーション。インターネットが身近に無い時代であればこの関係を続けるのはまず不可能だったと思うし、昨今のグローバリズムにより、世界のどの都市にいても大体同じ体験ができる世の中になりました。例えば指輪は、二人でそれぞれの国に構える同じジュエリーブランドへ見に行って選ぶことができたし、新居のベッドなどは、それぞれの国のIKEAで同時刻に待ち合わせをして、二人で大きさやマットレスの好みなどを擦り合わせながら選ぶことができました。(フェイスタイムしながら、マットレス体験している私を周りのお客さんがどう見ていたかは知らない。)

ちなみに私は実家の近所でちゃっかり職を見つけてインターナショナル保育園で働いたりなんかしてました。すぐ辞めるつもりだったのにうっかり正社員で採用されちゃって、東京に戻るために辞める時苦労しました。。。雑ですみません。その後、無事に東京の会社に再就職させてもらい、(ラッキーなことに向こうから声をかけてもらった)新居も整えて、準備万端いつでも来いや!となりましたが、その後も一向に鎖国が解除されないため彼の来日目処は立たず。来日のためには学生ビザだったり就労ビザだったり配偶者ビザだったりが必要で。でも配偶者ビザ取得のために結婚するためには来日せねばならないという、無理問答の無限ループ。え、一休さんのとんちかなにかですか?謎トレですか?という訳の分からなさ。まあ、行政自体もそこまで整備がされていなかったんだと思います。それで色々調べ上げて、先日ようやくリモート結婚に至った次第です。本来外国籍のパートナーとの婚姻は、彼がまず来日し、大使館で必要な書類を発行してもらって、同席して役所に届け出るのが基本条件ですが、今回色々な手段を駆使してそれを免除してもらいました。必要書類を揃えて最初に婚姻届を出しに行ったら、コピーだけ撮られて返却されたときは絶望感でいっぱいでした。そこから1ヶ月ほど待って、「法務局が許可を出したので改めて出しにこいや、受け取ってやるぜ」という連絡を千代田区さんからありがたく頂きました。「法務局さんの気が変わらないうちに一刻も早く出しに行く!」と言う私に対して、彼が日取りを気にして提出日が決まらないというロマンチストを発揮したのには少しイラつきました。晴れて婚姻が成立し、今は一緒に日本で住むための配偶者ビザを申請しています。遠距離時代の長い我々は、お付き合いの実態を示すために、LINEのスクショを50枚、ツーショット写真を30枚くらい用意しました。あと、彼の贈ってくれたプレゼントのリストとかも全公開しました。え、プライバシーって何。ギフトの金額全部わかっちゃったし。

そんなこんなで、同居までにはもうちょっと時間がかかりそうですが、確実に一歩一歩近づいております!あれ、でも壮大なラブストーリーになるはずが、ほぼほぼ私の海外サバイバルストーリーになっちゃった笑。まあでも、シンデレラも王子様は出しろの少ない脇役だしね。ただし結末はシンデレラストーリーでも何でもないので、いささか恐縮です。でも彼は優しい人だと思います。うちのプリンスチャーミングは優しさと天然パーマが売り。プリンスカインドネスって名付けようって今思いつきました。

カインドネスが来るまでは、私はとても暇してるので皆さんいつでも独身気分で誘ってください。なんかもう夜遊びとかしたい。健全なやつ。ニューヨークで夜遊びしたいよーー。もはや何がなんだか。こんな感じですが、これからもどうぞよろしくお願いします。

リフォームしようよ 私心も夢も

引越しをしました。

この10年でなんと国内外合わせ10回以上引越ししていました。考えてみると小さい頃から、新聞折込の売り物件のチラシなんかで、「ここが私のお部屋ね」なんて庶民的すぎるおままごとをしたりだとか、大人になってからも、完全なる冷やかしで住宅展示場に遊びに行ったりなんかするくらいには割と家とかお部屋というものが好きでした。

ということで、今回は過去10年の私の住まいから紐解く自分史、お部屋史を掘り下げてみたいと思います!

 

まず、私が日本を飛び出しNYCに引越したのが2011年4月のこと。トランク一つだけで浪漫飛行へin the sky してから早10年が経とうとしています。若かりしあの頃。。見るもの全てが新鮮でした。JFKからタクシーでマンハッタンへ。ドキドキしながら#3Dのアパートメントのドアを開けたのを覚えています。人生初のルームメイトはテキスタイルデザイナーの日本人のお姉さんで、とても親切に出迎えてくれました。日本から写真とスカイプで様子は見せてもらってはいたけど、予想通りの、いや予想以上にコージーでシンプルな、でも随所にこだわりの見られる2ベッドルームの広くて素敵なそのお部屋を、私は一目で気に入りました。多分、私はいまだに、この時のお部屋のテイストに大きく影響を受けて(引きずって)いるんだと思います。そしてこれを機に私は、私のニューヨーク生活の4年間をずっと、この部屋で過ごすことになります。

ここはマンハッタンのハドソンハイツと呼ばれるエリアで、いわゆるアップタウンと呼ばれる59丁目以北のアッパーウェストサイドよりもさらにアップタウン。さらに125丁目以北のハーレムよりもさらにアップタウン。友達には”もうすぐブロンクス”(NYCの5boroughsのうちの1つ、マンハッタンの北に位置する治安の悪いことで有名なエリア)なんてバカにされながらもギリギリマンハッタンのこのエリアは、実はとても穴場スポットで。確かにちょっとエリアを外れるとドミニカン天国で、レゲエでヨーヨーな陽気な感じが漂います。お世辞にも閑静な住宅街とは言いがたい雰囲気なのですが、このエリアだけが特別で!もし、この先NYCに移住する人いたら、私は自信を持ってオススメしたいエリアです。すぐ西にはハドソン川が流れ、ニュージャージーに繋がるジョージワシントンブリッジが架かっています。ワイルドな自然が広がるフォートトライオンパークという広大な森林公園があり、公園の中にはフレンチトーストが超絶美味しい一軒家レストランがあったり、メトロポリタン美術館の分館のクロイスター美術館があったりします。ニューヨークで結婚式を挙げるなら私はこの森の中でするぞと決めていたくらい素晴らしい場所でした。こんなに自然いっぱいなのに、地下鉄まで徒歩30秒、スーパー2分、スタバ3分という超好立地でした。ミッドタウンまで出るのも大体25分くらい。エレベーターは無かったから、荷物多いときは大変だったけどね。まあでも小柄なアジア女子に対しては、そういうのは誰かが必ず助けてくれます(それも一つのサバイバルスキル)。当時の私、一年目はインターンとしての採用だったので、実はほとんど収入がありませんでした。確か、月$1,500とかでした。今思えば、その収入でマンハッタンに住もうだなんて、度胸がすごいというか、向こう見ず甚だしいです。わかりやすくいうと、月12〜3万のお給料で港区住んじゃう感じかな?どうやって家計をやり繰りしていたのかが全く自分でも覚えていないんだけど、お金の有無にかかわらず、私はその生活をとても楽しんでいたし、毎日ハッピーだった気がします。数年後、ルームメイトのお姉さんは日本に帰国することとなり、私がその部屋を引き継ぎ、リースホルダーとなってルームメイトを探す立場となりました。その頃には私は正社員になっていたものの、一人ではさすがに家賃を払っていけないので、ルームメイト探しはいつも必死でした。男性ルームメイトを受け入れたことも何度かあったし(驚くなかれNYCでは異性のルームメイトは結構普通です)、友達や、赤の他人と住みました。最も居心地がよかったのは最後の1年間かな。アメリカ人の女友達と快適な距離感で好きなように過ごせていたと思います。彼女とは今でもその当時のことをたまに懐かしんで思い出して、お互いがどこかに引っ越す度に手紙を送り合うような関係を続けています。

2回目の引越しは、日本への帰国が決まった最後の1ヶ月だけ、ハーレムに住みました。家賃の高いNYCでは、自分が家を空けるときはその穴を埋めるために、誰かに又貸しします。(法的には限りなく黒に近いグレーですが、これをサブレットと言います)大体コミュニティの掲示板なんかに情報が出ていて、私は、日本人ピアニストさんが日本に遠征に行くというので、そのお部屋を借りました。お部屋にグランドピアノがあって、好きに弾いていいよとのことだったので、せっかくなので昔習ったノクターンなんだかを弾いたりして遊んでました。たった1ヶ月だったけど、私の最後のニューヨーク生活だったからか、その部屋を思い出すといつも少しセンチメンタルな気分になってしまいます。

3回目の引越しは、ニューヨークから帰国した実家で、4回目が東京です。最初の東京生活は目黒でスタートしました。1DKの新築アパートでしたが、なぜでしょう?広さはそこそこなのにDKって使い勝手が微妙なんですよね。また、帰国直後で海外の広い作りのお部屋に慣れてしまっていたので、広さにも少し不満がありました。広いところに引っ越したいなぁと悶々と考えながらも、FrancFrancなんかに買出しに行って、ほぼ初となる一人女子暮らしを楽しんでいました。

そして5回目は、いよいよタワマンです、笑。39階の広いバルコニーから見る夜景は本当に格別でした。東京湾も東京タワーもレインボーブリッジも、全部一望できました。晴れた日には富士山も綺麗に見えました。しかも、広いお部屋に住みたいという夢が叶ったようで、堂々の100平米超。お金持ちの彼氏が全て払っていたんでしょう、となぜだか誤解されやすいんですが、そんなわけないです。私もちゃんと家賃も光熱費も食費だって払っていました。今思えば妙にビジネスライクだけど、収入比で割っていたので。

そんな割切りの良い彼とサヨナラしてから、6回目の引越しで住んだのが、皆様おなじみソーシャルアパートメントです。100世帯が共同で暮らすこのマンション。個人的にはもう少し少ない世帯数の方が自分には合っていたかなとも思うけど、なんだかんだここに住んだことで東京での居場所を見つけられたかなという気がしています。ふらっとラウンジに行ったら誰かおしゃべりできる相手がいるっていうのは、やっぱり価値があります。そもそも、家に友達が常駐してくれてるっていうのは便利だよね。

その後、もう一度一人暮らしに戻ります。シェアでワイワイは私みたいな性格だと一年くらいでお腹いっぱいになってしまうみたいです。7回目は銀座も職場も近くて結構気に入っていました。隅田川沿いのリバーサイドっていうのも良かったな。

そして8回目に実家を経由して、9回目がシンガポール

シンガポールで、なんと記録更新の55階です。松井の背番号ですよ。以前記事にも書いたけど、シンガポールは基本的に土地が無いので、ビルは上に伸びる伸びる。55階というと展望台レベルの高さですが、周りにも同じくらい高いビルが乱立しているので、体感では20階くらいでした。ここは4人でのフラットシェアでしたが、一人分の家賃としては私史上最高値。でも、金融街ど真ん中だし、共用のプールやジャグジーが最高だったので仕方ないのかな。。物価としての家賃は今まで住んだ街の中ではシンガポールが一番高いように思います。NYCも高いけど、場所を選べば私の住んでたエリアはさほど高くなかったし、東京は、言うてもマンハッタンやシンガポールに比べれば面積が大きいからね。部屋は狭いんだけど家賃は普通かなあ。香港とか、めちゃ高いって聞くけど、でも買ってしまえば、値段上がる訳で。香港もシンガポールもリセールすれば高く売れることはわかってるから、実はその国の人は借りるより買っちゃう文化なのよね。東京も土地が良ければ上がるからまあ同じっちゃ同じか。

あれ、次がもう10回目だ。次はシンガポール内でのお引越しでして、婚約者の彼の部屋に移りました。これが事実上の10回目だけど、特筆すべきことは無いです。居候的な感じ。それで帰国して一旦また実家に、これが11回目。

いよいよ最後!最後の12回目(←今ここ)が今月引っ越してきたこの地、横浜市になります。今回は広さもちょうどよく、環境も気に入っています。レトロなアパートメントの1階で小さな裏庭もあるので、庭の手入れを頑張って、家族と猫を飼うつもりで、ワクワクしています。何だろう、松井の背番号を経験した身としては、もはやこの1階の、地に足のついた感じが非常に落ち着くというパラドックス笑。あれから10年だものね。色々変化もするよね。今までの住経験を生かして好きなものを凝縮させたマイスウィートホーム!インテリアを自分好みに揃えつつ、彼の来日を待っております。ということで、ここらでようやく定住予定なのですが、まさかの一人暮らしからのスタートになりました。笑。

余談ですが、この地を選んだ理由のひとつは、行政が街を上げて「多文化共生宣言」しているところ。役所の情報提供もデフォルトで8言語あるし、無料の日本語クラスもある。外国人も日本人も住みやすい街づくりを進めている印象です。きっと生活支援なんかも充実してると期待してます。(私個人がその辺のお世話するのは大変だからできるだけ行政に任せたい。) あと、近所のスーパーで世界の食材が売ってるのでわざわざ輸入スーパー行かなくても良いっていうところ。新幹線へのアクセスと空港へのアクセスがどちらも良いので、名古屋への帰省もシンガポールへの帰省も便利なところも気に入りました。

 

都内からちょっと離れちゃったけど、そんなに遠くはない!はず。

遊びに来てね♪

広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど

今、10年ぶりに故郷の名古屋に住民票を戻して名古屋に住んでいます。こうして久しぶりに住んでみて色々思うことがあるので今日は名古屋について書いてみようと思います。

 

私の実家は戸建なのですが、ターミナル駅である名古屋駅から徒歩10分という何かと便利なロケーションです。基本の移動は自転車かバス、少し遠出する場合は地下鉄を利用。最寄駅に新幹線も停まるし、国際空港までも1本。一応車も家にはあり、免許も取りましたが、完全なペーパードライバー。名古屋というと車社会のイメージがあるかもしれませんが、私にとっては車が無くても毎日の生活において不便はありませんでした。

名古屋駅には駅ビルやデパートが集結していて、地下街にはカジュアルなお店がたくさんあり、買い物には全く困りません。とりわけ近頃は駅前の再開発も進んで、ピカピカのハイブランドが並ぶ商業ビルや高層オフィスビルが立ち並んでいます。

思い返せば、私は小さい頃から名古屋駅が自分の庭でした。6歳の頃から自転車で、当時名鉄にあったキディランドで文房具を買ったり、10歳ごろには近鉄ビルのHMVで好きなアーティストの中古CDを買ったりしていました。それぞれのビルの構造(連絡通路が何階にあるかなども含め!)や各フロアの店舗マップ、入り組んだ地下街の最短経路など、中学高校の頃には完全に頭に入っていたのです。

たぶん、これこそが私が「街っ子」(英語だと恥ずかしいがcity girl) といわれる所以なのだと思います。名古屋なんて東京と比べれば小さな小さな地方都市なのですが、(とは言っても、最近の名古屋駅は開発すごいからここは見くびらないでほしい笑。) ここでこういうふうに育ってきたことが、私のスタンダードの価値観や生活スタイルを形成しているのだろうと思います。私は、外に住んでみたことで初めて、生まれた土地の便利さに気づくことが出来ました。ここ10年間、名古屋、ニューヨーク、東京(品川区、中央区江東区)、シンガポールの4都市8箇所に住んできての結論は、結局実家が一番便利!ということでした。笑。当然っちゃ当然ですが、私は生まれてから四半世紀、ずっと名古屋に住んできたので、この街にあるものだけで暮らせる体になっているためです。そもそもこの街にあるものの中で選んで好きになってきたという言い方が正しいかもしれません。

例えばインテリア雑貨を買いにいきたいとして。思い浮かぶのは、ACTUSとかザラホーム、Francfranc辺りでしょうか。どれももちろん最寄駅にあります。ニトリや無印、ハンズだってもちろんあります。しかしながら、東京に住んでた頃はザラホームに行くのにまずは地下鉄で青山まで行かなければなりませんでした。オサレタウン青山。。。もうそうなったらそれは買い物というより立派なお出かけです。。。さらにそこでお目当てが見つからなかった場合は、また移動しないといけません。きっと東京には探せばめちゃくちゃ高感度なセレクトショップとかもあるのでしょうが、私にとって丁度良いのはせいぜいザラホームかACTUS辺りのチェーン店なので。とはいえ行く頻度の低いザラホームのために青山に住むという選択肢は無いですし。うーん。

例えばスタバに行きたいとして。名古屋駅にはたぶん5店舗以上はあると思います。(今ググったら名古屋駅前には11店舗ありました。) でも、前述の東京の私の住んでいた近所にはありませんでした。おそらく探せばめちゃくちゃこだわりのサードウェーブコーヒー的なシャレオツカフェもたくさんあるのでしょうが、私は結局スタバで満足できてしまう人なのです。だからといって徒歩圏内には無かったりする。そうなると電車に乗ってまで買いに行くものでもないよね!?となってしまうのです。ちなみにニューヨークやシンガポールで住んだ部屋の側にはありました。というかスタバスタバって、グローバリズムに汚染されてる私、でも認めるしかない事実。世界中どこにいてもやっぱりスタバが安心するんだもの。ま、これはスタバのある街を選んで住めば解決する話かな笑。(でも、考えなくてもスタバくらいはどこにでもあってほしいんだ!って思ってしまうところが♪育ってきた環境が〜のセロリ問題勃発要因なんでしょうね。きっと。)

例えばあなたが海外旅行に行った時、馴染みの和食が食べたいのに無くて不便に思った、という経験があると思います。ロジックは同じで、不便に思うのは、馴染みのものが近くに無いからです。個人的感覚ですが、30代を過ぎて人の好みや価値観は劇的には変わらないと思います。変えようという意志を持ってライフスタイルを変えることはもちろん往々にしてあります。そしてそれに順応する態勢はそこそこ人間には備わっていることも理解していますが。順応するには最初は特に大きなストレスがかかります。海外経験をした人ならよくわかってもらえると思います。このストレスのかからなさこそが、便利、住みやすい、と思わせてるのに他ならないのです。つまり、人が「便利」「住みやすい」と思う判断基準は、住み慣れた故郷とのギャップがいかに小さいか、だけなんじゃないかという理論が私の中に浮上しました。

故郷最強説。ってことですね。だから私が名古屋が住みやすいってのは当然で、逆に東京出身者からしたら、「欲しいもの(東京にしか無いショップの何か)が手に入らない」っていうストレスにもなるわけで。もっと田舎で育った人なら、「身近に美しい自然が無い」ことや「人が多い」ことがストレスにもなるわけで。だから、育ってきた環境の異なる人に、「おすすめの住みやすい街」なんて聞いても無意味ってことですね。千差万別なので。

 

余談ですが、私の小さい頃は駅のガード下の自転車置き場にたくさんのホームレスが段ボールを連ねて生活していました。各ホームレスの居住空間のすき間に「お邪魔しますね」という感じで自転車を停めさせてもらってました。面白いことに子どもだった私はそれに対して一切何の感情も持っていなかったことを覚えています。もしかしたら、そういう風景も当たり前だったので、ホームレス大国ニューヨークにも簡単に順応できたのかもしれません。それに駅前で色々なキャッチの人が若い女の子にポケットティッシュを配っていたので、一度駅前を歩けば5〜10個はもらえました。なのでポケットティッシュはガチで買ったことがありませんでした。というか、配られても断るのが世間の常識なのかもしれませんが、それをなんのてらいもなく受け取れる感覚こそが、ひょっとしたら名古屋駅に生まれ育った感覚なのかもしれません。(※個人差有り笑) 通学路にソープランドもあったりして、朝、店先を掃除しているタキシード姿のお兄さんに挨拶をすることが日課だったり。こうした雑多な多様性の中に住んでいると、自分と異なるもの(この場合ホームレス、キャッチ、風俗など)を排他しようとするのではなく、異なるものとして割り切って共存していく力が育まれるのだなと私は思います。また、彼らとの距離感の取り方も覚えます。ポケットティッシュはもらうけど、ティッシュに入っている風俗の募集広告は読まない、とかね、当たり前だけど、こういうリテラシーが子どもの頃から自然に身につくということです。ホームレスとも挨拶以上は踏み込まない、とかね。よそはよそ、うちはうち。それぞれ生きてるけど他人と私は違う。小さい頃からのこうした価値観の形成が、いわゆるドライな冷たい感覚と表現されてしまうことものあるのだけれど、この冷たさには、色々なものを排他せずに受け入れる温かさを内包しているような気もします。自分とは違うものを理解できないから排除するのではなくて、違うもの同士距離感を測って生きていく。それが全てかなと思います。考えてみれば海外でのルームシェア経験もまさにそれでした。見た目も出身も文化も肌の色も言葉も違う人たちとのルームシェアが一般的な大都市では居住者同士お互いに距離の取り方をわかっているので無駄な隣人トラブルも起きなかったです。友人と住んだ場合を除いて、私もただのルームメイトとは「顔見知りの隣人」くらいの間柄でした。これは都市を生き抜くための一種のサバイバル力なのかもしれないなと今改めて合点がいきました。

話がずいぶん逸れましたが、ここまで書いて、読んでくださったみなさんは私が名古屋ラブ!なのだと感じられたかもしれません。でも、それはちょっと違っていて。あくまでも「便利さ」を切り取った場合、ストレスの無い地元が優勝するという話で、そこに文化、仕事、コミュニティ、憧れ、など、様々なファクターが追加されるとまた別の話なんですよね。。駅の周りは便利で好きですが、文化的には名古屋は昔からよそ者を受け入れにくい文化が根付いている恐るべきコンサバ王国で、私にとっては窮屈さもあります。経済的には大都市の一つであるはずなのに、未だに「大いなる田舎」と揶揄されるのもそうした文化的背景が影響しているのだと思われます。ニューヨークも東京もシンガポールも名古屋も、それぞれ個性があって、どこかがパーフェクト、パラダイスっていうのは結局無いんですよね。(悟りモード)

みんな違って、みんないい。みつを。

 

こんなことばかりを考えて、タイトルの小沢健二の歌詞の通り、次に住む都市の地下鉄マップと睨めっこをする今日この頃です。

次の街は、実は、決まっています。長くなり過ぎたのでそれはまた次回。

おしまい!

 

1/3も伝わらない

改めましてこんにちは。慌ただしくて気づいたら3月!確定申告の季節!

うっかりワンダフルシンガポールライフを送ってて(笑)すっかり忘れてましたが、

一連のコロナ騒動で期日が4月まで伸びたという記事を見て慌てて申告&納税いたしました。

高額な住民税もしっかり東京都中央区に納めましたよ。住んでないのに!!不服くん!

 

さて、私の暮らすシンガポールは言わずと知れた多民族都市です。多民族って好きなんです。

多民族都市で生きている人間は、割り切り力が高くて楽チンで。

でも気づいたことが一つ。

ニューヨークも多民族都市。そこで一番違うなと思うのが、人のカテゴライズの仕方。

ニューヨークの人たちは、社会の中で、人種や民族つまり「エスニシティ」ごとに人を分けているイメージなのですが、シンガポールの人は、「ローカル」か「ローカル以外」かの二つで分けているようなイメージです。

(*もちろん外国人かシチズンか永住者かなどの制度的な区分けはどの国も似たようなものですが、今私が言っているのはコミュニケーションとか社会生活においてです。)

ニューヨークの人たちは、相手が外国人がどうかなんてあまり気にしません。

引っ越して間も無くニューヨーカーの友人に、

「ここに住んだ初日から君はもうニューヨーカーだよ。」と言われました。

ニューヨーカーかどうかの定義は実際にそこに住んでいるかどうかであり、あなたがアメリカ人かどうかとは全く別物という意識です。ただ、文化や宗教が違うので、相手がどの民族に属しているのか、というのは各々気にしながら喋るかもしれません。

一方シンガポールの人たちは、〜ここがあまりにも駐在大国だからなのか〜、

シンガポール人か否か(広義にマレーシア国籍などの永住権取得者も含む)という点が核になっている印象です。

つまりニューヨークにおいてはアジアンだろうがブラックだろうがヒスパニックであろうが=ニューヨーカーであるのに対して、

シンガポールでは大雑把にいうと、東南アジアや中国系=ローカルと見なされ、それ以外が「ローカル以外」。

ニューヨークでローカルですか?なんて質問は存在しなかったし、なんだかその質問自体が無意味だったのですが、こちらはシンガポーリアン同士でもこの会話をします。(見た目で判断がつかない場合もしばしばあるため)

でも、あなたが「ローカル以外」だからと言って変な差別を受けたりとか特別な目で見られるとかそういうことはありません。その辺りは生まれながらの多民族国家だけあってとてもオープンです。日本だと起こりうるアレね、異なるものを悪とする、同調主義バンザイ的なアレ?いつまで続くんでしょう。(小声)

 

この間フォーマルな場面で、シンガポール人ローカルと日本人駐在員の相手二人と私とで、打ち合わせをする場面がありました。駐在員は私に日本語で話し、ローカルは英語で話します。

途中で、日本人駐在員に英語で言われたのが、「あなた、日本人と話す時とシンガポール人と話す時とで、コミュニケーションの仕方が違っているね」と指摘されました。さらに「何か秘訣はあるの?」と。え、感覚的なものだから気づかなかったのだけど、確かにそうかもしれないとハッとしました。

それを言われてからしばらく家で考えてみたのですが、

出た結論は、「英語で話す時はワガママになる」でした(笑)。

英語で話す国は(日本より)ワガママが受け入られる社会、と脳が勝手に認識しているからだと思います。なんてこった。すごく面白い発見!

 

それで、より高度なテクニックを要するのが、私の最近のボーイフレンドとのコミュニケーション。

なんと彼は上手に日本語を話すので、お互いの母語を交互に使ってコミュニケーションを取っているのだけれど、日本語で喋っているときに、私はうっかり日本的なコミュニケーションを取ってしまうことがあって。

彼は日本語を流暢に喋ってはいるけれど、日本の文化は持っていません。

なのに、私は「察してくれるのが当然」と言った話し方、「相手の二手先、三手先を読むような」話し方で、彼にとっては非常に難解なレベルのコミュニケーションを欲してしまっているようなのでした。

ごめん!わかんない!言いたいことあるならはっきり言って!と困惑され続けて気づきました。

でも、日本語がそういう作りだから仕方ないじゃん。とも思いますが。

まだまだ”異文化コミュニケーション”の修行が足らんなーと実感した次第です。まさにOJTなう。欧米の英語圏のように主張ベースで話すのが、シンガポールでは正って訳でもないみたいだし、塩梅がなかなか難しいです。うーん。これからわかっていくつもり。

 

私はまだまだシンガポール初心者だから、実はこうして日々マイノリティとしてストラグルすることばかりです。でも一歩一歩この社会にも慣れて、いつか私も「ローカルですか?」なんてシンガポーリアンに聞かれる日が来るといいなと想像したりするのでした。(それは割とハードルが高いよ)

おしまい!

 

【追記】

最近このブログを読んでくれる友人知人に、考えが深いなどと褒めていただくことがあるのですが、実は私の大学時代の専攻は国際文化でして、特に比較文化や社会言語学などを研究していました。だから、ある意味当然というか(笑)むしろ学んでてこれかよ!って感じなのでお恥ずかしい限りです。もう10年以上昔の話なので許して!

そして時は2020

「英語上手ですね!」

こっちに来てローカルのシンガポーリアンによく言われる言葉。ただし、これには必ず枕詞が付く。

「日本人なのに、英語上手ですね!」

それで私の頭の中に純粋な疑問が沸く。え?日本人はそんなに英語が下手なのか??こんなに大勢の日本人がシンガポールに住んでいるのに??と。

私はネイティブでもなけりゃ帰国子女でもない、学生時代に留学もしたことのない、大人になってから英語を学んだ割と底辺の英語力の人間だと思っていたけれど、私以下の英語力で働いたり生活したりしている日本人の多いことにゾッとなる。それって生活成立してるんだろうか!

この10年、私には英語コンプレックスがずっとつきまとっていたというのに。

それでまたニューヨークにいた頃を思い出してみる。ニューヨーク在住の日本人は、一部の浮かれた若い語学学生を除いては、みんなそれなりに英語はできたように思う。(だってみんな必死でサバイブして生きているしね) それに、ひと口に日本人といっても、ジャパニーズアメリカンもたくさんいるし、もはや日本に帰っても順応できないだろうな、という類の長年住んでいる人たちも多かった(=クセが強いアメリカナイズド日本人。略してクセ人とわたしは心で呼んでいる) だからなのか、ニューヨークで同じ褒め言葉を同じニュアンスでもらうことはただの一度もなかった気がする。

むしろ、こいつ英語下手だなあ。。と思われていたことがずば抜けて多かったと思う。当時の彼氏には、君の英語は一切上達しないな!なんて、どストレートに言われていたりした。まあこれは彼がノンネイティブだったから許せる話。彼がネイティブ話者だったら、私はきっと「てめーの日本語も上達しないな!」とキレていたに違いない。ちなみに余談だけど、そう言われたときの私の返しはお約束のように決まっていて、What the fuck! と言いながら彼の頬をグーで殴る。(汚いニューヨーク英語上手いでしょ?という皮肉を込めて) それを4年間続けていたんだ、成長しないはずだわ笑。

 

ところで「○○語上手ですね」はとても使うのに難しい表現だと思う。受け手にとってもセンシティブ。だって考えてもみてほしい。ネイティブレベルでペラペラ話す相手に対して、お上手ですね。とあなたは言うだろうか。言わない、というか言えないでしょう!?

つまり、○○語上手ですねには、=がんばって習得したんですねのニュアンスが必ず含まれる。裏を返せば、「ネイティブとは明らかに違いますね」と言われているようなもの。自分だってそうだ。明らかにカタコトの外国人がアリガトウとかドウイタシマシテとか、頑張って日本語を話してくれるとついつい、「日本語上手ですね!どこで覚えたんですか?」と言いたくなってしまう。

だから私は「英語上手ですね」と言われるたびにモヤモヤせずにはいられなかった。そう言われれば言われるほど落ち込んだものだった。その通り、年月が経って多少なりともカタコトのレベルを超えてからは、魔の「英語上手ですね」を言われる回数が徐々に減っていったように思う。

あんなに人を落ち込ませた「英語上手ですね問題」。晴れて終止符を打ったかのように思われたが、ときは2020年。再びこのシンガポールの地で言われる日が来ようとは!

でも、あのとき言われたそれとはニュアンスが確実に違っている。面白いことに、どうやら彼らは私の英語を、純粋に上手いと思って褒めてくれているようなのだ。

うーむ。理由を考えてみると、第一に、シンガポールには圧倒的に前述の「クセ人」が少ない。日系シンガポール人なんてのもまだお目にかかったことがない。

逆に、本当に普通の、海外に住んでいそうもない素敵な家族が住んでいたりする。まあ、平たく言ってしまえば、シンガポール在住者のほとんどが駐在員だからである。実はシンガポールの日本人には意外とダイバーシティがなくて、至極真っ当な駐在員か、我々のようなちょっとしたアウトサイダー現地採用ジャパニーズの二択。以上。

ニューヨークみたいな多様なクラスターは存在しない。思い返せば私はニューヨークに住むクセ人たちや、対岸のニュージャージーの日系コミュニティに住む日系アメリカ人のおばあちゃんたちのことが結構好きだった。日系スーパーで英語と日本語ごちゃ混ぜの物言いで買い物する彼らの背後に人生が見えて、妙な愛しさと哀愁を感じたものだった。

言ってみればシンガポールはその対極。「海外?たまたま派遣されました駐在員&駐妻でーす。」みたいなおいおいハワイの観光客かよみたいな人たちがわんさか住んでいるのだ。(すっごい偏見とステレオタイプですみません。私がいかに駐在員が嫌いかってことがバレてしまう笑。もちろん、そうではない駐在員もいると思いますが個人ブログなので偏見はご了承を。笑)

だけどこれってすごいこと。言葉ができなくても生活できるシンガポール!ばんざい!

駐在員は正直それで良いと思う。4、5年して楽しかった思い出として日本に帰ればいいのだから。結局日本に帰って日本の文化と日本の言語で生活するのだから現地に染まる必要も現地の言葉を必死で習得する必要もない。

そこで私みたいな中途半端な英語人間は褒められる。要はここに住んでる日本人の英語力のアベレージが低すぎるから。とあるデート相手には最近「君ならわざわざ日系で汗水流して働くことないよ、楽な米系企業に転職しなよ」とまで言われたし。

でも、やっぱりモヤモヤは晴れない。なぜかって?それは褒めてくれるシンガポール人の英語自体が訳わからないから!笑。これは別のトピックで書こうと思っていたのだけど、実は私はここ1ヶ月、シングリッシュが本当に聞き取れなくて相当に困っている。中華系のアクセントと文法に乗って話される独特な英単語。。本当にキツくて何言ってんだが理解不能。。渡星当初は、自分の英語力が極端に落ちたのではないかと思ってすごく焦った。でもそれが自分のせいではないとわかって安心したのも束の間、私がシンガポールに住んでシングリッシュの中で生活しているのは紛れもない現実!私はここに染まらなければいけないんです。。

シングリッシュの源流がイギリス英語だというのも地味にキツい。私は完全にアメリカ英語贔屓の人間なので、mind the gapではなくてwatch the stepだし、metroでもtubeでもなくsubwayなのです。

シンガポール人に「あれって何?」って聞いた時の答えが「カッパッ」と言われて3回聞きなおしたこともある。カッパッ→カーパーク→car park つまり駐車場のこと。アメリカではcar parkではなくてparking lotだから、たとえ綺麗な英語でcar parkと言われても2秒は戸惑うのに、カッパッじゃわかりようがないよ。ああ、ストレス。。

渡米当初に「ハット食べるか?」と言われて戸惑ったこともあったけど。ハットはhot dog =ホットドッグのことでした。ああ、これはニューヨーク弁。話逸れるけど、125丁目以北に住んでるブラックカルチャー強めのニューヨーカーはTHの発音がDになる。That ではなくDat。THの発音が苦手な日本人には朗報だけど、♪悪そな奴らだいたい友達♪なYo Yo系が使ってかっこいいなまりだから、ラップも一緒に練習しないとサマになんないね。ってくだらなくてごめんなさい。

 

ところ変われば言葉も変わる。当然だけど、でも、私の英語上手ですね問題は2020年現在も形を変えて進行中だし、このモヤモヤはたぶん一生晴れることはないでしょう。。おしまい!

Downtownへ繰り出そう

私が住んでいるのはCBD、いわゆるセントラルビジネスディストリクトといわれる金融街です。ニューヨークで言うところのフィナンシャルディストリクト(ワールドトレードセンターがあったりウォールストリートがあるところ)、東京で言うところの丸の内や浜松町といったところ。

え!そんなところに人って住んでるの!?って思う人もいるでしょう。

答えはノー。その通り普通はあまり住みません。そもそも居住用コンドミニアムもこの地区には数棟しか存在してません。

では私がなぜあえてこの地区を選んだか、そしてそれが正しい判断だったのかどうなのか、数週間住んでの感想を今日はお伝えしようと思います。(大学生のレポートのような文章構成だ。笑)

 

まず第一に、シンガポールはとても狭い!

前提として、都市と呼ばれるのはどこでも大体ひとつのダウンタウン(繁華街)があって、当然中心となる駅の周りが栄えているのが普通。

その都市が集まって県や州になり、国になる。そんなイメージですが、世界の都市の中でも東京とニューヨークはそれぞれ特殊だと私は思ってます。だって東京はダウンタウンが複数に散らばっているし、(歴史的にダウンタウンを定義するなら日本橋がそれか?)ニューヨークはマンハッタン全土が繁華街。Uptown, Midtown, Downtownと地理上分けてるけどニューヨークはミッドタウンだってダウンタウン。ニューヨークのDowntownは地区名としての固有名詞であり、繁華街という意味の一般名詞のdowntownとは異なる、と私は理解してます。

ってうっかりするとすぐニューヨークの話をしてしまうので、シンガポールに話を戻すと、シンガポールの国土は東京23区と同じくらいで、人口は600万人。(東京23区のおよそ3分の2)

東京23区には前述のように渋谷新宿銀座上野原宿などなどたくさんのダウンタウンがありますが、同じ広さのシンガポールには1都市1ダウンタウンの基本概念に基づいて河口付近のベイエリアダウンタウンとなっています。(これはとっても素直な都市形成のされ方だと私は思う。)数キロ離れてショッピングストリートのオーチャードがありますが、この界隈を含めて1ダウンタウン圏内でしょう。

つまり!シンガポールというのは都市形成の観点から見ると、国というよりはただの1都市と捉えた方がしっくりくるのです。

一つの都市が国になっている違和感!そりゃさすがに狭いよ。。。これが例えばニューヨークのように市内どこもが栄えていれば私にとっては問題ないのですが、23区=淡路島程度の国土で、その半分がほぼ未開の亜熱帯ジャングル。そして残りの土地もダウンタウン以外はいわゆる居住区。しかもダウンタウンを離れれば離れるほど郊外になっていくという。。郊外の居住区(といってもなんども言うけど面積的には23区内)はどんな風かというと、わかりやすく言うと私の心が荒んでしまうくらいの田舎。地下鉄が入っているエリアだと言うのに駅前にカフェの一つもないほどです。そして大概ローカル感漂う大きなショッピングモールが各地域にあります。そもそも私は車社会を彷彿させるショッピングモールというものがあまり好きではないしね。モール=ニュージャージーと言う刷り込みのせいかも。(でも今思えばあれはニューヨークの対岸だから、ジャージーの中でもとても栄えた一流のジャージーだったのだ!嗚呼、私の視野はなんて狭かったのでしょう。)

と色々文句ばかり並べましたが、要はシンガポールは一歩街を離れれば大いなる田舎だということです。シンガポールと言うより、もはや感覚的にはマレーシアと同じではないかなと思います。(事実、マレー系シンガポール人だけでなく、マレーシア国籍のマレーシア人もたくさん住んでいます。)でもこれって世界地図を見れば簡単に想像つくことなんだよな。地図を見ればマレーシアの属国みたいなもんですから。シンガポールの経済都市国家のイメージが先行して、大都市部分しかみんなフィーチャーしないもんだから、「ダウンタウン以外はマレーシアもしくは中国の田舎みたいなところだよ」って誰も教えてくれない!もっとみんな伝えていった方がいいと思うよ。って思って今使命感を持って伝えています笑。ということで。田舎ライフがどうしても性に合わない私としては、住むのはダウンタウン1択だったわけです。金融街が好きだから住んでると言う訳ではなくって、地方都市にありがちな、全ての機能を備えたその街の唯一のダウンタウンに住むことにした結果です。それが単なる地方都市ではなくイコール国レベルであるために、その唯一のダウンタウンが巨大だというわけ。土地がないからビルは上に上に伸びる伸びる。ほんとは、もうちょっと落ち着いたとこがよかったけど!そして、当然ここには金融系の世界各国の駐在員が集結します。できる限りのダイバーシティを求めていた私にとっては結果的に大正解な選択でした。ただし、肝心の職場が非ダウンタウンなので、なんだかんだ日中はマレーと中華のカルチャーにどっぷり浸っております。田舎は嫌いと言いつつも、この距離で都市と田舎のガラッと違う二つのカルチャーを体験できるのは不思議な二重生活を送っているようでもあり、実は結構面白かったりも、、するんです。

おしまい!

 

 

アジアの純真

シンガポール生活2日目、気付いたことや感じたことをほとんど熟考せずに垂れ流していきたいと思います。

 

シンガポール人は愛想が良い?悪い?

→なぜこんなことを考え出したかというと、まだ滞在2日ですが、あれ?思ってた反応と違うな?みたいな違和感を覚えたから。

愛想が良いのか悪いのか、まだよくわからないのだけれど、これまでのところ、めちゃくちゃ愛想がいいな!って感じはしない。だから欧米的なノリで接すると、肩透かしくらうかも。

お店でHi lady :) みたいな慣習的な声掛けもなければ、無駄に天気の話とかも向こうからはしない。(外人ってみんなスモールトークするものだと思ってた笑)いつも海外のタクシー乗ると、運ちゃんとゲートウェイ的なおしゃべりを楽しむことにしているので、私の方から「私日本から引っ越して来たの!」と広げ方の難易度ゼロの話題を振ってみたものの、特に盛り上がらず終了。おやおや?と、到着早々少し引っかかる。

もっと言うならアメリカでは、知らない人とは誰とでもかるーく喋るのがマナー。エレベーターの中、タクシー、電車待ち時間、などなど。もしもあなたが、通りすがりの他人の靴が素敵だと思って、その気持ちを伝えたかったら、横断歩道渡りながらでも、すれ違いざまにI like your shoes <3 と伝えればOK。日本でやったら変人扱いだけど。そういえば去年ハワイに行ったときなんて帰りのタクシーで、私の恋バナから空港着く頃には運ちゃんの直近のワンナイトスタンドの暴露話にまで発展したな笑。

で、思ったのが、シンガポールは欧米ではない!ってこと。(いや、知ってたよ!)知ってた、それは知ってたんですけど、言語が英語という完全に欧米化されたものを使ってるだけに、脳が勘違いしちゃう。シンガポールはただただ言語政策として英語を公用語にしたってだけだもんね。(ネイティブがいないのに公用語としちゃう大胆さよ!)ここは言語と文化が直接結びついてない希少な国なのだ!とシンガポールで2日過ごして目から鱗が落ちた。都市と文化はもちろん密接なので、英語圏とは異なる文化として成立しているのだけれど、言語と文化は分離しているのだね。あーなるほど、それで言葉は「シングリッシュ」か。と、ふりだしに戻って合点がいった。「イングリッシュの訛り言葉」とは呼ばないことで、欧米文化とは特に紐づいてませんよーって言う隠喩が込められてたりして。宗教と民族を結びつけて考えがちなのと一緒で、言語と文化も一緒くたにしてた自分。

国づくりのお手本は日本だったって聞くけれど、話を少し飛躍させて日本の公用語がもし英語になったら!って想像したら、きっと同じこと、いやそれ以上の次元の捻れが起こっちゃうだろうなーと笑えた。日常生活のコミュニケーションまではそりゃ変わらないわ。元号発表さながらに、今日から新公用語は「英語」ですって発表されたその日から突然、街中のみんなが通りすがりの人々とフレンドリーに話し出したら面白いな。欧米と対極にある和を尊ぶ文化のままなのだから、コミュニケーションの捻れは必ず起こるでしょうね。イエス、ノーの中間の言葉が開発されたりして。そうなったらやっぱりいくら英語と一緒でも別の文化に紐づいた別の言語と言わざるを得ないな。

と、日本で例えたらとても理解しやすくなった!

異常に長くなってしまったけど、もう一つ愛想の良し悪しについて気付いたことがあって。これもよく考えれば単純で当然のことなんだけど、ここシンガポールでは私はアジア人であること、外人であることの特権が使えない、ということ。(いや、知ってたよ!)ニューヨークにいた時は、童顔で小さなアジア人と言うだけで、他人は必ず優しかったし、なんならワガママもそれなりに通ってた気がする。マイノリティであることを逆手に取るいわゆる”ガイジン特権”濫用。(女性である弱みを活用するのと似てる。やりすぎは禁物。)それがシンガポールだと、むしろ私、一見マジョリティ中のマジョリティ。外見だけで言えばど真ん中ストレートくらい現地感キマッてる私。笑

フィナンシャルディストリクトで働く女性たちの格好、8割ワンピースです。老いも若きもワンピース。しかも日本のそれとは違い、ボディコンシャスなのとかアブストラクトなカラフルな柄のとかなの。私の日本から持って来た服そのまま現地の服じゃん!って驚いた。サイズ感や顔立ちも似たようなものだし、多分彼らの中にしれっと混じっても画だけ見たらバレない自信ある。

で、何が言いたいかと言うと、人間の愛想というのはきっと、異なるものや外のものに対して生まれやすいものなんじゃないかってこと。つまり、私の見た目じゃ、シンガポーリアンからはデフォルト対応しか受けられず、さらにそのデフォルト対応が、想像していたアメリカのそれより随分あっさり塩味であるために、私は余計戸惑ってしまったのかもしれない。そう考えると、欧米では区別されてもてはやされるという類の”逆差別”を受けてたのかもね?そういう”自分たちとは違う”という無意識が、形となってアウトプットされているのが「愛想」というものなのかもしれない。愛想は異文化に対するバロメーターって考えると面白い。相手の愛想が良ければ良いほど、自分とは違う人って思われてることになるね笑。流石にダイバースすぎるニューヨークじゃその感じもさほどなかったけど、まだまだホモジナスな日本で考えると、確かに旅行客にはホスピタリティ満点の神対応だけど、気に入って住みだすと外に追い出そうとする。日本は「内」と「外」を極端に分けたがる村文化なのでこれはこれで仕方ないのだけど。

あれ、最後日本の話になってしまった。

 

。。。そんなこんなで、私はシンガポール生活2日目にして、この地でしぶしぶガイジン特権を封印して、今日もワンピースを着て、日本グリッシュを駆使しながら、 One Asiaの一員として生きていく心構えを持ったのでした。おしまい!